こんにちは。
お読みいただいてありがとうございます。
さてさて、今年も有能バッテリーコーチの山田勝彦さんのところへ、ルーキー捕手くんがやって参りました。
阪神4位の立命大・栄枝「もう指名がないんじゃ」
#ドラフト会議2020 #ドラフト #阪神 #タイガース #hanshin #tigers https://t.co/pUcfTbJUyJ— 日刊スポーツ大阪本社 (@ONikkansports) October 26, 2020
初々しいねえ~。
というわけで。
新・山田勝彦チルドレン誕生を記念いたしまして。
亀山・新庄剛志と共に、92年大躍進の若トラとしてチヤホヤされまくり。
選手会長としてチームを引っ張りながらも、(そのさっぱりワヤな打撃力でチームの足を引っ張り)、”暗黒の象徴”とファンにしばかれまくった伝説の捕手にして。
現在は嶋基宏さん、伊藤光ちゃん、梅野隆太郎くんという3人のゴールデングラブ受賞キャッチャーをゼロから育てた、球界の名伯楽たる…。

まさに明と暗(黒)を生きる、表には出てこないプロ野球界の深海系レジェンド。
山田勝彦さんの野球人生を、A4用紙で1枚程度にぺろっとまとめてみました。

ぼくと契約して勝彦民になってよ(←解決)
プロ野球で成り上がるには、まずは上司の懐柔から。
新社会人としてまだ右も左もわからない栄枝くんと言えど、直属の上司たる2軍バッテリーコーチ・山田勝彦さんの球歴くらいおさえておかないといけませんよ。
ぜひ参考にしていただけましたら幸いです。(何の効果もないけど)
使用している雑誌記事は、当時の月刊タイガース、プロ野球ai、週刊ベースボール等各誌から引用させていただいております。
やまかつヒストリー
・1969年7月2日、愛知県名古屋市に生まれる。同年同月同日、亀山努さんも誕生。必然的に亀山忍さんとも同じ誕生日である。
月刊タイガース1992年6月号
ちなみに0歳の段階で、ママの背中から転がり落ちて机の角で頭を強打する。以後、怪我・故障との戦いの人生がはじまる
・元気に幼稚園へ登園。
月刊タイガース1992年6月号
可愛い顔して、近所の子供さんと未就学児に可能な悪の限りを尽くす。あまりの悪ガキぶりにママはしょっちゅうご近所にお詫び行脚。
・元気に小学校へ入学。落ちてあったテレビを蹴っ飛ばして足を切る、わざとじゃないのに窓ガラスを割るなど3年生までに総計27針縫う。勝彦ママ、引き続きあちこちにお詫び行脚。
・小学2年生で学級委員に選ばれ、以降毎年選任される。
月刊タイガース1992年6月号
・小学3年生で本格的に野球を始める。名古屋西リトル・リーグ入団。子供のころからエースで3番。
・小学6年生で生徒会長に選ばれる。
月刊タイガース1992年6月号
勉強・スポーツに秀でているとして名古屋市から優良児童として表彰される。
・中学入学。引き続き、勉強・スポーツが出来た文武両道の優等生の為、女の子にもモテまくる。友人たちと結成したバンドではボーカルを担当する。
後にプロ野球選手として出場したテレビの歌合戦番組では、ミスチルの「シーソーゲーム」を歌い、その自慢の喉を披露していたとの情報あり。
出典不明
(中学時代の出来杉くん勝彦さんと、ちょっとグレかけた同級生との友情エピソードが、どういうルートなのかナゾながら、後にNHK「中学生日記」でドラマ化されている)
野球はシニアリーグで日曜日に車で1時間かけて通い、学校では陸上部に所属する。
月刊タイガース1992年6月号
中1で陸上「ボール投げ」競技ジュニアオリンピックに出場。全国14位になる。(日本一になったという記述の資料もあり詳細不明)
・中3で陸上部のキャプテンに選出、シニアリーグでもキャプテンに選出されることになり両立に悩む。
ついに野球をやめることを決断し、シニアの監督に伝えるも「野球をやめるなら、道具を燃やすから持って来い」と言われ、電話口で泣き出す。グラウンドに野球道具を持って現れた勝彦さんは、泣きながらもう一度野球をやることを決断し、その後、シニア大会でエースとして活躍、チームは全国3位になる。
球界の悪しき習慣よくないですね。
梅野隆太郎さん、上司からパワハラ被害を受けるの図 pic.twitter.com/Pt8TZP8kia
— はにまる@山田勝彦保護指定区域 (@yamakatsuhogo) 2019年1月6日
・名門、愛知東邦高校へ進学。ちなみに高校でも成績優秀、野球以外のスポーツでも活躍。生徒会活動にも力を入れていた。
・高2春のセンバツにはリリーフピッチャーとして憧れの甲子園で登板するも、緊張のあまりストライクが全く入らず、四球連発して阪口監督にソッコー変えられる。(第一期チャンスがピンチ)
甲子園に出場もしていないのに、ストライクが入らなかったことを亀山・新庄にネタにされて怒る山田勝彦さん動画。
しかし以降、ほぼ全てのプロ野球名鑑アンケートに野球人生一番の思い出として、センバツ出場を挙げ続ける。
・高校2年秋、新チームのエースとしてキャプテンに選ばれるが、監督の命令で容赦なくなぜかキャッチャーへ転向。「山田にはピッチャーとして何か訴えかけるようなものがなに一つなかった。が、肩も強いし、頭のいい子だからいけると判断した」と語る阪口監督の完全見切り発車でGOするも、勝彦さんはピッチャー失格の烙印を押されド凹みする。
プロ野球ai 1992年増刊
・新入学してきた山田喜久夫(元中日)が新エースとなり、急造キャッチャーながら主将としてチームをまとめ3番打者としても活躍。夏の愛知県大会を勝ち進むも、決勝で享栄高校に敗れる。

ちなみにこの頃のやまかつさんは、尾崎豊に傾倒。マジメな良い子ちゃん生徒会長&キャプテンシーキャラの下に、鬱屈した10代の焦燥を感じさせるエピソードである。
(後の20代半ばのインタビュー記事では、僕ももう大人なので、尾崎は”卒業”しました的なコメントをしていたりする)
sakuraさんご提供
・部活引退後、既に大学進学を決めていたが阪神タイガースから3位指名を受ける。名古屋市民の勝彦さんは、ガチの中日ドラゴンズファンだったため、正直がっかりする。
余談ながら、元ドラゴンズファンの山田勝彦さんは、中日ドラゴンズが優勝を決定的とする一発となる、伝説の山崎武司さんXポーズホームランを福原忍さんと献上した張本人のため、
参考動画:
阪神タイガース在籍中に、中日ドラゴンズ翌年のカレンダーに登場するという快挙?を成し遂げたことがあることをお伝えしておきます。
閑話休題。
また、ドラフト指名されたはいいけれど、在阪球団であるタイガースだったため、当時付き合っていた彼女のことがまず頭をよぎる。
も、またまた阪口監督が「大学へ行ったつもりで死ぬ気でやってみろ!」と思いつきで勝彦さんの進路を決定づけた為、タイガース入団を決意。
週刊ベースボール
も、当時の彼女とは、遠距離恋愛の末あっさり別れる。
ちなみに、ルーキーやまかつさんは本当にバース岡田掛布レベルの知識しかなかったため、入団当時の某有名中継ぎ投手に「オレの名前を言ってみろ!」とジャギ様のように詰問されて答えられず、怒鳴りつけられたとの証言あり(亀山さんのラジオ番組出演時)
・阪神タイガースへ3位指名を受け入団。同期の横浜高校・高井一さんと仲良しに。
・1988年 1年め、プロで通用するどころかほぼキャッチャー素人状態のため、プロの変化球を全く取れず。バッテリーコーチに基本のキから指導を受ける一方、とにかく体力作りの日々を送る
虎風荘に大型テレビ(注:ブラウン管)がやってきたよ!記事にモブとして登場する山田勝彦さん↓
月刊タイガース
偉いヒトたちの寄贈写真とるためだけに、わざわざ自室から連れてこられた新庄剛志さんら、若トラくんたちのこの迷惑げ100%な表情、いいですね…。
ついつい「今どきの若い奴らは覇気がなくて~」みたいなことを言いがちな年代のやまかつさんですが。
初心を忘れることなく、現代の若い子たちと向き合う前に見て頂きたい、当時の貴重なお写真です。
・1989年 2年め、シーズン終盤に1軍昇格。1打席だけ打席に立つ。
月刊タイガース
成人式を迎え、高井一さんらと球団社長からありがたい訓示をいただく。
昔はこんなに大量に高卒ルーキー採ってたんですねえ…。
・1990年 3年め、アメリカへ野球留学に派遣されるも、スタメンマスクを被った2試合目でデッドボールをうけ右手親指骨折。1週間で帰国する…黙々と筋トレ、高井一さんと夜練習の日々を送る。
月刊タイガース
この年の1軍昇格はなし。
息抜きに当時流行していたディスコや趣味のライブ通いをするも、デカい体でポゴダンスを踊りまくり、警備員にマークされる。
月刊タイガースより「山田が好きでね」証言
・1991年 筋トレの成果か、ファームでバンバンHRを打ち、打撃好調を見込まれ1軍昇格。数試合マスクを被って連勝したことから、「山田には勝ち運がある」とお試し起用がつづき、こっそり1軍に定着する。
月刊タイガース1991年9月号
月刊タイガース表紙に葛西稔さんと初登場の勝彦さん。初々しい!この時22歳ですよ。
つーわけで、新チルドレンの栄枝くん、キャンプでお世話になる山田勝彦さんの経歴、ちょっとは参考になりましたでしょうか?
キャッチャー歴8ヶ月でドラフトかかる勝彦さんもすごいけど、そんなん取ってくる阪神スカウトさん、どないな基準やねんな…。
まぁ、それはさておき…小中高と他薦でクラス委員、生徒会長を歴任。
クラブ活動では必ずキャプテン。
と、子供の頃から人望だけはハンパない山田勝彦さん。
プロ野球入りしてからもタイガースの選手会長に選ばれてますし…。
お顔の方もこんな感じに整ってたので、当然ですがモテまくりの超リア充な青春時代を送ったご様子…。
だりあさんご提供の西川敦子さん著:人気プロ野球選手ボディチェックなるご本より。

まぁ当時のファッションセンスはご愛敬ですけど。(注:一ヶ月に最低でも10万円はお洋服に費やしていると記事内にコメントあり)
勝彦さんのセンスがおかしいわけでなく、当時のプロ野球選手は99%こんな感じだったことを、やまかつさんの名誉のために追記します。
【Blog再録】2001年さんま御殿プロ野球SPに、金本知憲さんら超一流選手らに混じって、報われない選手会長時代の山田勝彦さんがナス色ファッションで登場!ノムさん一家に公共の電波で愚痴りまくる伝説回
そして、運命の1992年。
長くつづいた暗黒時代のなかに一瞬の光として登場。亀山・新庄・久慈さんらと共に大車輪の働きを見せ、優勝まであと一歩という大躍進の立役者となります。
1993年公式イヤーブック
月刊プレイボーイ1992年12月22.29合併号
月刊プレイボーイ1992年12月22.29合併号
夢と希望にあふれた23歳の勝彦さん。そして伝説へ…
現役実績のわりには仕事途切れないナゾのバッテリーコーチ、勝彦さんの秘密は案外ここらへんの人間力にあるようなないような…。どうなんでしょうね。
その人柄を知る人からはヤマさんヤマさんと慕われるのに。
現役時代の晩年がアレだったばかりに、オールド虎ファンからは異常なまでにメッタ打ちにされる、評価相反する第8代タイガース選手会長にして
現・2軍バッテリーコーチの山田勝彦さんを応援しています。
というわけで、新やまかつチルドレンにして、前途洋々たる若トラ・栄枝裕貴くんを応援していきたいと思います。
がんばって(意訳:やまかつさんにゴリゴリしごかれて早く一人前になってね)
最後までお読みいただきありがとうございました。
もっと山田勝彦さんのことを知りたい!あなたはこちらの記事もどうぞ